困りごとを解決 最初の転機「ポリノン」 第二の転機「エサノン」
ポリノン開発
企業の歴史を振り返った場合、その年譜の中に転機となる出来事をいくつも見出すことができるものである。それを酒井化学に当てはめるなら、最初の転機は昭和四十三年であろう。なぜなら、この年の十月に、大ヒット商品となった「ポリノン」が発売されたからである。 ポリノンとは、ポリエチレンと不織布をラミネートした製品である。その名称はポリエチレンの“ポリ”と、不織布を意味するノンウーブン(nonwoven)を組み合わせた造語である。 当時、家電業界では、テレビなどの製品を梱包する際、不織布とポリエチレンを使用していた。まず、傷を防止するために不織布で包み、さらに湿気を防止するためにポリエチレンの袋で梱包していた。つまり、製品を二重に包んでいたのである。この方式は時間的にもコスト的にも効率が悪く、各メーカーにとって悩みの種となっていた。こうした状況の中、酒井は出入りしていた松下電器茨木工場の担当者から相談を受けた。不織布とポリエチレンの二重梱包を何とか合理化できないかというのである。 そこで酒井は、担当者と協議を重ねた末に、ポリエチレンと不織布を―つにした製品の開発に着手することを決めたのである。 もっとも、発想こそシンプルであったが、その実現は容易ではなかった。ポリエチレンと不織布という性質の異なる二つのものを貼り合わせるには、高度な技術が要求されるのである。酒井は次のように当時を振り返っている。 「松下電器には当時、足繁く通っており、不織布とポリエチレンの袋で梱包することが二度手間になっている状況もよくわかっていた。担当者と酒の席でいろいろと話している時、”酒井さん、うまいこと考えられんやろか“という話題が出て、私も”それなら一度やってみますわ“ということになった。しかし、不織布はあくまで繊維なので、ポリエチレンとのシール性が悪かった。ポリエチレンと不織布を熱加工して貼り合わせるのだが、それがなかなかうまくいかなかった。加工時間を長くしてようやく付着したと思っても、すぐに剥がれてしまった」 ポリノンの製品化は、当時としてはかなり技術的に困難なことであった。さらに、貼り合わせたフィルムを袋状に二次加工しなければ最終製品にはならない。そのため、酒井化学では酒井を中心に試行錯誤を繰り返したのである。
ポリノンの大ヒットを機に大きく成長
こうして苦労の末、製品化されたポリノンは、家電・弱電関係のメーカーから好評をもって迎えられた。ポリノンを使用すれば工程の合理化につながるからである。 家電·弱電業界は伝統的にコスト意識が強い。そのため、ポリノンがコスト削減に直結することが高く評価されたのである。松下電器はもちろん、各メーカーがこぞってポリノンを採用するまでに、長い時間はかからなかった。 また、昭和四十五年七月には資本金を二千万円に増資し、八月には第ニインフレーション押出エ場を建設している。新工場には大型機械も導入され、生産能力も月産三百五十トンに倍増した。 この目覚ましい業績の向上を牽引したのは、やはりポリノンの大ヒットと言えるに違いない。 そして、企業としてまだ草創期にあった酒井化学が、ポリノンというヒット商品を持つことができたのは、酒井の存在があったからこそであろう。 酒井は酒井化学創立に先立ち、約十年にわたって家電・弱電業界と関わりを持っていた。その間に蓄えてきた豊富な業界の知識があったからこそ、ポリノンという商品の着想が生まれたのである。 昭和四十六年度の従業数は五十六人に増加した。創立から十年足らずにして、酒井化学は企業としての新たな段階に進んでいったのである。
ポリノンに暗い影
酒井化学の成長に大きく貢献したポリノンであるが、思わぬ問題が起こった。昭和四十年代の中盤以降、テレビの筐体はツヤ消しのものが主流になりつつあった。だが、ポリノンで梱包した場合、不織布と接触している部分のツヤ消しが落ちてしまうのである。それはすなわち、ポリノンの需要が縮小することを意味していた。 酒井化学にすれば、実に深刻な状況であった。苦労を重ねて作り上げたヒット商品がその存在価値を失ってしまうのである。 実際、家電メーカーからはポリノンの発注が減少するようになり、最大にして最も関係の深い顧客である松下電器からもポリノンの改良が要請された。 そこで酒井はポリノンの欠点を改良した新製品の開発に着手する。不織布の代替品として、旭ダウの発泡ポリエチレンシート「エサフォーム」を使い、自ら先頭に立って開発に取り組んだのである。昭和四十六年の秋のことであった。 その時の心境を酒井は次のように振りっている 「ポリノンの需要が次第に減ってきた。その分を他社に奪われては大変ということで、死にものぐるいだった。毎日毎日、本当に眠ることができないくらいだった」 同じポリエチレンとはいえ、発泡は酒井化学にとっては未知の分野であった。だが、酒井は危機感をバネに新製品の開発に挑んでいった。酒井化学の歴史の根底に流れる”積極果敢“の精神が発揮されたのである。
試行錯誤の末、エサノン開発に成功
酒井は技術部門の責任者であった神戸(元取締役技術部長)とともに、新製品の開発に取り組み始めた。ポリエチレンフィルムとエサフォームを貼り合わせるラミネート機が市販されているわけでもなく、機械の開発からのスタートであった。 ポリエチレンと不織布という異なる素材を貼り合わせたポリノンと比べ、ポリエチレン同士を貼り合わせるのはそれほど難しくはなかった。問題は品質面であった。 当初は全面貼り合わせ方式を検討したが、失敗に終わった。発泡ポリエチレンの最大の特徴であるクッション性が損なわれたり、発泡ポリエチレンの方向性の影響でフィルムが縦裂けを起こしてしまったりしたのである。 機械の方は市内の鉄工所に製作を依頼することになった。専門メーカーに製作を依頼して、製品の情報が外部に知れることを危惧したためであった。そのため、酒井と神戸は時間の許す限り依頼した鉄工所に足を運び、機械の製作に取り組んだのである。 検討を重ねた末、貼り合わせ法は菱型にすることになった。完全に貼り合わせない分だけ、フィルムが裂ける危険性は小さくなるからである。 だが、菱型方式の場合、熱ロールの製作が難しかった。神戸は熱伝導率を高めるためにロールを鋳物製にすることを決め、親戚の鋳物業者とともに製作を進めた。 もちろん、酒井も神戸も新製品の開発だけを行っていたわけではない。通常の、それも多忙な業務の合間を縫っての作業であり、徹夜や休日返上は珍しいことではなかった。 こうして、約四カ月をかけてようやく機械も完成したが、それで終わりではなかった。松下電器にサンプルを持ち込み、ポリノンの代替品として採用可能かどうかの判断を仰がねばならなかったのである。 結論を先に言えば、松下電器のOKが出るまで三カ月を要した。酒井は大阪府茨木市にあったテレビ事業部に十数回通っている。この当時の様子を神戸は次のように回想している。「もう時間など全然気にしなかった。何度もやり直している間に外が暗くなり、明るくなっていた。ある時、明け方に気がつくと会長(酒井)がいなかった。自分だけ帰ったのかと思っていたら、サンプルの切れ端を持って松下電器に向かっていた。いつもそんな感じだった」 酒井は朝一番の雷鳥号に飛び乗り、松下電器での打ち合わせを終えると時間を惜しんで福井に戻ってくるのが常であった。そして、神戸とともに製品の改良作業に打ち込んだのである。 神戸によると、酒井はいつも次の予定を決めており、やらざるを得ない状況をつくっていたという。その一方で酒井は失敗を決して責めることもしなかった。 「とにかく、やらざるを得なかった。どうして製品ができたのかよくわからない気がする。今思えば、やはり会長が次の予定を決めていたからだろう。それがなかったら、あれほど打ち込めなかった」 試行錯誤を繰り返した末に完成した製品は工サノンと命名された。そして、昭和四十七年八月に発売されたのである。
エサノンは松下電器からも高く評価され、茨城工場だけでなく全国のテレビ生産工場で採用された。実際、松下電器の共栄会社優秀提案特三級に選ばれ、感謝状が贈られたほどであった。酒井は次のように回想している。 「松下さんは非常に評価が厳しく、何度サンプルを持参しても誉めてはもらえなかった。それでも最後には高く評価していただけ、表彰まで受けることができた。あれほどうれしいことはなかった」 後年、酒井は事あるごとに、エサノンの開発成功が人生最大の喜びだったと広言していたほどである。
エサノンも大ヒット
こうして世に出たエサノンは、松下電器を皮切りに、他の家電・弱電関係のメーカーに次々と採用されていった。酒井化学が営業に同らなくても、メーカー側から「売ってほしい」という注文が次々と舞い込んできたという。酒井化学では、発売と同時に本社敷地内にエサノン工場も建設し、生産体制の整備も行った。 発泡ポリエチレンシートとポリエチレンフィルムを貼り合わせる手法は、後に特許を取得したほどの斬新な発想であり、ポリノンの欠点を完全に解消していた。加えて、保護性の強い発泡ポリエチレンを使用したことで、梱包する製品の安全性も向上した。 まさに、エサノンは使用するメーカー側のニーズに合致した製品だったのであり、大ヒットしたのも当然と言えただろう。実際、この分野では酒井化学の”一人勝ち“と呼べる状況が続いたのである。 エサノンが発売された翌年の昭和四十八年には従業員も六十五人に増えていた。もちろん、その原動力はエサノンの大ヒットであった。 この頃には創立以来の累積赤字も解消しており、酒井化学の経営も安定軌道に乗っていた。酒井はこの当時を次のように振り返っている。 「他社ではエサノンのような製品は製造できなかったから、あれだけ売れると利益も相当出た。びっくりするほど、おもしろいほど売上が伸びていった。それまで我々もこれほど儲けたことがなかったので、非常にうれしかったものだ」 ポリノン開発を酒井化学の最初の転機と位置づけるなら、エサノン開発は第二の転機と呼べるだろう。そして、第二の転機は最初の転機よりも酒井化学の歴史に及ぼした影響は大きかった。それは、その後の酒井化学の歩みが如実に証明していくことになるのである。